日本のコンピュータの黎明期についてまとめたもの。時系列順に説明されていて 俯瞰するのに適している。個々の内容については、上記の「計算機屋かく戦えり」を 読むとよい。
個人的に感動したのが、60年代の性能でも新幹線の予約システムを実現していたことと、 そのインタフェースとして既存の印鑑を使ったインタフェースをそのまま踏襲するために、 印鑑にID番号を埋め込んで印鑑としてもタグとしても使えるようにしたというところ。
いったい現在のコンピュータ屋は何をやっているのだろうかと、強く反省した。
うーん。書いてあることは分かるというか、個人的には特に目新しくない。
そもそもこのところ紙の資料を扱うことがめっきり減ったので(印刷したほうが
読みやすいことは多いけど、マスターは電子情報になっていることが多い)、
書類の整理法があまりピンとこないというのはある。
あとコンピュータについては情報が古いので、あまり参考にならない。
かたっぱしからテキストファイルに書いておいてあとから検索するなんてのは
昔っからやっているし。
というわけで、今読んでもあまり参考にならないかも。
例のミトニックによる、ソーシャルエンジニアリングの実例集。
いや、本当に実例が山のように載っている。一応フィクションのようだが、実際に
あった事例だとしてもおかしくない。資料としての価値も高いと思う。
日本向けには、日本人の気質を考えて応用することを考えたほうがいいかもしれないけど。
以下メモ。ソーシャルエンジニアが利用する人間の弱さ。
テポドン・ショックによって火がついた日本独自の情報衛星の打ち上げに関する本。
技術的なことは何も書かれていない。テポドン・ショックを始まりとして、計画を開始する
ところと、打ち上げのことについての政治的な諸々が書かれている。
本当は計画がはじまってからの技術陣の戦いというのもドラマだと思うのだが、
それを期待するのは無理だろう。実際ほとんどが機密扱いなようだし。
技術的な部分については、おそらくLEOに関する諸論文などを読むのが良いと思う。
内容は刺激的だし、翻訳もすばらしい。良く出来ている本だ。この本はきっと、将来
何度も読み返すことになるだろう。
しかし残念なことに、この本に書かれていることは、ハッカーもしくはそれと等価な
人種にしか本質的には理解されないと思う。そうでない人種からみたら、他の宗教の
人間が自分達の正統性を訴えているように見えるかもしれない。
もしくは(特に若い読者は)ハッカーでないくせにハッカーになりたがる
悪い意味でのワナビになってしまうかもしれない。
でもそんな連中のことを気にしていてもしかたがない。この本を読んで共感を得た
のなら、やるべきは語ることではなく、ハックを実行することだ。
カッコウの卵よりも、新しい内容だけに、使われている手口も新しい。ただ、想定読者 を一般人にしすぎたせいか、技術的な部分の掘り下げが浅いのと、翻訳がいまひとつ であることが気になった。もうちょっとパンクな文章にしても良いと思う。
RSAなどの実際の計算方法が詳しく載っているのがとても参考になった。
演習問題としてサンプルプログラムを作ってみても楽しいかもしれない。
サイバーパンクの生の歴史に触れることができる。サイバーパンクの精神を学びたいと 思う人には必読書だと思う。
どうしても生活するには金がいる、というわけで、実は結構マネー編と内容がかぶっている。
マネー編はこの本のお金の部分を細かく砕いたという感じ。両方読んで損はないと思うけど、
どちらか片方なら切実な問題としてマネー編を読んだほうがいいかも。
数字が色々出ているので、人生設計を考えるにあたっての目安となり、
資料として参考になった。
もっとも、人生設計と言っても、今の気楽な身分とこの先のことでは、分からないこと
だらけなのだが。
色々「こうすると良いですよ」ということが書いてあり、まあ再発見的なものではあるが、
整理されているのを俯瞰するくらいの価値はあるか。それ以上の衝撃的な内容は
期待するべきではない。ちゃんと生きている35歳にとっては、当たり前のことばかり
だから。
とは言え、まあ先達の言うことには耳を傾けましょう。
萌え本だが、実は萌えはあまり意識していない作りになっている。単に、オタク肯定、
オタク読みやすいように、という点だけで「萌える」と言っているのだろう。
それはそれで良いと思う。下手に狙って失敗するよりは。
内容だが、実体験に基づきつつ、ノウハウ的なものを少し混ぜて、入門編としては
悪くない内容なのではないかと思う。
小説技術本は沢山ある。しかし多くは実用的でない。
この本が技術論として実用的かというと、そういう訳ではない。この本では、実際に著者が
作品を書いた時に、どう考え、どういう資料を使い、どういう素材を用意したかが
書かれている。
しかしそれで良い。著者の主張は、小説家が次々と書いた時のノウハウを出していけば、
演繹的に何か知見が得られるのではないかというものだからだ。
その点で、この本では言行が一致している。
多分こういう本があと10冊くらい出てくると、とても面白くなると思う。
少なくとも資料として、私には役にたった。
いわゆる「萌え本」の一つだが、自分の業界に関係あるので、買ってみた。
ポイントは「ノベルズ」となっているので、小説として刊行されている点である。
買う前にイメージしていたのは「第六大陸」や「ソリッドファイター」のようなもので
あった。
しかしそのイメージは、あっさりと崩れることとなった。あまりのことに、ここに
思いの丈をぶつけてみたい。3つの視点から感想を述べることにする。
自閉症は、インタフェースの障碍である、らしい。知能には問題ない高機能自閉症
(ハイファンクション)の場合、頭の中ではその人なりの世界や論理がきちんと成立している。
しかしインタフェースが人と違うので、その世界を見ることも他人に理解してもらうことも
できない。
この本の貴重な点は、そんな自閉症患者の頭の中を知ることができる点である。
高齢者医療についてちょっと調べてみようと思い、そのとっかかりに買ってみた。
内容としては、ターミナルケアに始まり高齢者介護などについて、概説している。
主に行政や制度を中心に言及しているが、現場の施設からの声もきちんと採り入れて
いる。最後には<深層の時間>という概念を持ち出して、ケアの主体と対象者との
関係の概念的部分を堀り下げている。
が、やはり良くも悪くも視点が高い点が特徴だと言えるだろう。そういうものの見方は
とても重要なのだと思うが、一方でgoogleなんかで終末医療や介護の体験記なんかに
書かれていることとの間に、温度差があることは否めない。どちらに共感できるかは
その人の立場によって違うだろうし、どちらが良いということもないだろう。
本当に難しい問題だと思う。
たまたま古本屋で目に付いたから買ってみた。コーヒー好きな人の蘊蓄本としては 二度三度と読み返していいかも。
二冊続けて大蔵省関係の本を読んでみた。上の本の方がまず大蔵省の組織概要など
の説明から入っていることと、下の本の方が時系列的に後の話題までカバーして
いるので、上を読んでから下を読んだ方がよかったかなと思っている。
あんまり整理されているとは言い難いが、事例集としては面白い。
KJ法の真似事自体は何度もやっているのだが、原典になるこの本をちゃんと読んだこと がなかったので、改めて読んでみた。もともとの動機付けが非常に良く分かった。 続編も買ってあるので、時間をみつけて読んでみたいが、その前に、数年前に読んだ 発想法などの新書系を改めて読み直して概観しなおそうかとも考えている。
男性がなぜ「マリみて」にはまるのか、というのも、少女性の追求の果てにある中性の 追求ではないかと思う。女性がBLにはまるのも、根っこは同じなのではなかろうか。 つまり女性からみたBLは「漢×漢」ではなく「男×中性」or「中性×中性」なのである。
ではなぜ少女性と中性を求めるかというと、それは日本古来の土着の巫女信仰に
根底があるものと考えられる。
なんて感じで、BLとかマリみての話題から少女民俗学へと繋げてみた。
1980年代、自分はただの子供であり、メディアのこちら側にいる存在でしかなかった。 他の子供よりアニメを見ていたとは思うが、それはあくまでテレビという メインカルチャーのデバイスを通してのものだった。それを改めて内側の視点から 総括した本として、興味深い。同じように90年代を総括した本が出るのは、いつに なるだろうか。
内容的には、まあ特に新しい発見もなく、「ああそうね」という感じのものばかり
なので、毒にも薬にもならずというのが正直な感想。ベストセラーになるような
本ではないのではないかと思う。
何がアレかというと、著者が喋ったことを編集者が書きおこしたということで、
構成にメリハリがない。なんとなくダラダラと思うところを連ねているだけにしか
見えない。もし一回全体を見直して、構成に手を入れたとすれば、更に読みやすい
ものになったのではないかと思うと、勿体ないというか、手抜きなのではないかと
勘ぐってしまう。
初期のUNIXの歴史を示した書。表紙に「USENIX '83 SEX DRUGS AND UNIX」と
書かれた缶バッチがあったりして、やっぱりUNIXってのはパンクなんだなあと
思う。
amazonの書評とかだと、訳がボロボロだと酷評されているが、まあ読めてしまった
のは多分私が前提の知識を持っていて補完できるからなのかもしれない。
ちなみにBSDの歴史については、
「バークレー版UNIXの20年
(UNIXが、AT&Tの所有物からオープンソースソフトウェアになるまで)」
に、特に著作権裁判などの経緯を含めて、詳しく書かれている。
概観するには良いかもしれない。
「情報テロ」を主題にしている割りに、コンピュータ関係の記述に首をかしげたく
なる箇所が多かったのが、素人向けに簡単な表現で説明しようとしてピントが
ぼけているのか、著者の理解が不足しているのかは、いまひとつ分からなかった。
なんとなく、本質的な問題に踏み込めていないような印象を受けた本だったが、
その本質が何なのかは良く分からない。
(抜粋)
民衆にとっては、「一事について有り余っている者」こそ、「偉大な人間」
であり「天才」である。(略)「障害」にその人の個性を認めるところに、
民衆の知恵があるというのだ。
とかなんとか。
斎藤環氏の著作は非常に読みやすい。何故かと考えると、我々と同じ視点で、
我々と同じ言葉で書いているからだと思う。それでいて、我々(というのは
ヒキヲタのこと)より高い、俯瞰した視点で書かれているので安心できる。
大上段でもなく、かといって内側からでもないバランスの取れた立場という
のを、今後も取り続けてもらいたいものだと思う。
例によって、印象に残った箇所を引用しつつ。
国会議員の精神構造について、「自己愛パーソナリティ」という切り口から
述べている。
政治家と官僚との関係についての章で、「『政治家』の自己愛を満たすことは、
政策面で官僚亜g好き放題にできる土壤となると共に、チヤホヤすることに
よって『政治家』を自立心という点からも骨抜きにしていく意図があるのでは
ないかとすら思える」という部分がある。この内容と、日本人の依存体質に
ついて述べられた他の文献での、子供を育てる上で自立心を育てずに骨抜きに
するというような内容とが、オーバーラップして見えた。
それからすると、官僚というシステムは、日本においては、国民性を背景に
して必然的に生まれて来たものなのではないかと思えてきた。
両者の比較という視点で、少し文献を読み返しつつ整理してみたくなってきた。
1章と2章は過去の著作のまとめtぽい感じ。後半は散逸的にトピックを 選んで述べている。根底にあるものは共通しているわけだが、斎藤先生は 「サブカルの人」的立場も持っていつつも、人を救おうという医者の視点が 背景にあるように感じるので、読んでいて共感できるし安心も出来る。
哲学史の復習をしておきたくて読んでみた。内容としては、ギリシャ哲学から
現代の哲学までを網羅している。日本の哲学が含まれていないが、それはまた
別の本を読めば良いだろう。
というわけで、目次的意味での内容は良いのだが、資料としては、哲学者の
フルネームが書いていないとか、どこの国の人か書かれていないとかいう
欠点がある。それになによりも、文章がヘタクソ。話にならない。
まず、この手の正確を期す文章では使えない構文(日本語に存在しないから)を
使っていたり、助詞の使い方のちょっとした違いで理解しづらくなっていたり、
後のページで説明される単語が人名が何の説明や(後述)とかの記述なしに
出てきたりしている。非常に理解しにくい。また、文系の人特有の、無意味に
まどろっこしい言葉の転がし方をしている箇所もある。
それだけなら仕方がないなあで済むのだが、この本は冒頭に「内容を落さず、
知的なことに興味のある人ならばだれでも読解可能なものを、ということです。
普通の日本人にわかる、わかりやすい日本語で、ということです」と書かれている。
全くもって実践できていない。更に、この著者は「入門・論文の書き方」といった
本も出版しているらしい。
論文の書き方以前に、日本語の書き方を勉強しなおして
もらいたい。
あまり「精神分析」という学問の話ではなくて、
図解というくらいで、半分のページは図。精神分析の歴史について、 フロイトを中心に説明している。入門としては良いかと。
斎藤先生とサブカル系の人との対談とか。
印象に残った箇所をメモしてみる。括弧内は個人的意見。
滝本関係で目に入った本なので読みました。
この本が書かれたのは1937年ということで、昭和12年です。昭和12年というと、
2.26事件の翌年。盧溝橋事件の年。軍部の発言力は強くなる一方で、日本が
戦争に向かっていく最中の時期です。そのような中にあって、この本のような
思想を持ちそれを発言できるということは、非常に意義のあることだと思った。
とはいえ、この本もその数年後に発売禁止になってしまうのだが。
さて、昨年夏以来の俺テーマは、日本の近代史で、これがなかなか難しいの
だが、この本を読んで改めて近代日本の思想史についても勉強しないといけない
と思った。軍が何をしたかというのは表面的な事実でしかなく、心ある人びとが
何を考えていたを学ぶ必要があると思う。同じ理由で、近代日本の科学史も
学ばないといけないかもしれない。
さしあたり、高校の時に学んだ哲学史の概論をすっかり忘れているので、復習
しようと思いいくつか本を注文してみた。
えーと、これ読んで、とりあえず父親に天下りだけはするなと言おうと決意 しました。とか思っているうちに父親は良く分からないクラスチェンジをする ことになりましたが。
自分の記憶を織り交ぜながら17歳という時代の精神構造について語る。
考えてみると、現象としての17歳の色々と、精神分析の結果としてシンボリックに
解析される17歳の色々との間には、やはり乖離というか距離感というのがあるわけで、
それの中間に位置するような感じの本。
1章と2章はそんな感じで読めた。
3章はエッセイ風味で、まあ色々ネタをインスパイアされたので、よし。
4章以降はなんというか、筆が走りすぎというか、あんまり。というか共感できな
かった。内容というよりも、書き手としてこういう書き方をしてしまうことに。
ところで、この本では色々若者に対して共感できないことや、社会に対する苦言
やらを色々書いているのだが、しめくくりとしてじゃあ筆者の子育てはどうなのよ
という問いに対して「わたしには子供なんかいません」と答えている。
色々考えた結果、子供を持たないという選択をしたとのことだ。それも一つの選択
だろうと思う。
しかし現象だけを取りだして遠くから眺めてみると、最近親になることを拒否する
若者が増えているという現象もまた社会の中で話題に挙がっている。この本の筆者の
年齢からすると、そういう時代での選択ではないので、ここで筆者もまた同じ例では
ないかという主張は更々なく、ただ考察をする上でのきっかけとして挙げているだけ
なので留意して欲しい。
さて。
「親になることを拒否する若者が増えている」という話題の主軸は、子育てに恐怖を
感じて親になることを恐がり拒否し子供を作らない夫婦が増えているということで
ある。色々考えた上での選択ではなく、単に子育てという未知の経験が恐いので
子供を作らないというものである。同じコンテキストで、子育てにより自分の生活
が崩されることを望まない夫婦が増えている、ということも語られる。でもって、
私は両方がなんとなく分かるのだな。子供が欲しいという純粋な欲求もあるのだが、
同時に今の世の中で子供をどう育てていけば良いのかとい不安も、今の自分の生活
を崩したくないという気持ちも、どちらも分かる。
前者については……、あー、長くなるからやめよう。どちらのケースも、周囲を
取り巻く社会の環境を見たら必然的に発生するだろうなと考えられる問題だと思う。
一つ言いいたいのは、選択をするためには考えて考えて考え抜いた結果として、
選択をするべきだということ。
最新といっても、1999年時点での本なので。
なんでこの本を図書館で借りてきたかというと、未来予想遊びをするにあたって、
宇宙開発はどういう方向に進んで行くのかなと思ったから。一つ言えるのが、
「どういう動機で」というのを同時に考えないと未来予想にならないなということ。
20世紀後半に宇宙開発が進んだのは冷戦の中での競争があったからだとも言える。
さて、現代と近未来を考えると何が後押しになるだろうね。探究心とか国際協力とか
そういうキーワードだけでは足りないような気がするな。
二つ下の本(「自虐史観」の病理)の反対側の視点の本。
とりあえず二つ下の本については、以下の二点だけを指摘しておく。
ディベートという競技自体には全然興味がなかったのだが、実際のディベートの 競技をしているところを見たくなった。でもこれは見る側にもそれなりの技術を 要するものだと思う。
この本の著者は「新しい歴史教科書を作る会」の主要メンバーであり、この本
の中では主にいわゆる従軍慰安婦問題に関する報道の誤りなどについて述べられて
いる。南京事件については具体的な話しが少ないので、そちらは別の資料を読む
必要があるだろう。
個人的な感想としては、前半は極めて理路整然と事実関係を述べているように
思えたが、後半になって右とか左とかその手の話しになってきて、根が技術屋で
ある私としては事実だけを説明してくれれば右とか左とか思想団体とか派閥とか
の勢力争いとかの話しはどうだって良いのだがというところではある。
しかしどうもその手の話しを避けて通ることはできないようで、近代史を学ぶ
上で共産党がどういう動きをしてきたのかは調べる必要がありそうではある。
昨年の夏以降、俺的テーマは日本の近代史なわけだが、結局明治以降の歴史や 戦後処理の問題などについて自分の立場を模策しないことには、そこから続く 現代に置いて自分がどういう立ち位置を取るべきなのかが分からないのである。
内容以前に飜訳の下手さを何とかしてほしい。
いわゆるライトノベルを書いてみようかなと思っている人には良い本かと。 あと文庫版が出ています。こちら [amazon]。
一般向け入門書としては適当かな、という感じ。
本屋でぱらぱらと眺めて、日本の九一式と九七式暗号装置の説明があったので
買ったのだけれど、九一式暗号装置の特徴が別の本で読んだのと違うのでどれを
信用すれば良いのか。ちゃんと調べ直さなきゃ。
あと、2の8乗が248とかいう、計算機屋なら瞬時におかしいと思う間違いがあったり
して、どれをどのくらい信じれば良いのやら。
自分はソフトウェア「職人」かという問に対して、なかなか答を出せずにいたの
だが、これを読んで自信持って「職人である」と言えるようになった。
ソフトウェアは製品と作品の両方の側面を持っている。なぜなら、大量生産の
部分はファイルのコピーとかCD-ROMの複製とかそういう作業で可能なわけで、
重要なのは最初の1つのマスターを作成することだからである。
「職人と芸術家の違いとは製品と作品のどちらを作るかかという違いである」という
定義を読んだことがある。多分永六輔の「職人」だったと思うが。その定義に
従うのなら、ソフトウェアは作品であり、ソフトウェア開発者は職人ではないという
ことになる。だから迷っていたのだ。
まず、「製品と作品」という区別をもう少し噛み砕くと「同じ品質の物を多数
作らなければならないか、1つだけ優れた物を作れば良いか」という違いになる
のではなかろうか。芸術家は1つだけ優れた物を作れば良いが、職人は優れた
もの(それは芸術的にも、という意味も含む)を同じように多数作れなければ
ならない。作ると言っても全て手作りなので、工業製品的な生産とは違う。
だから「製品」というのは工業が発展して以降は誤解を受けやすいかもしれない。
ソフトウェアの場合、大量生産は簡単なので、それを行なう物は開発者では
ない。開発者はあくまで手作りで開発作業を行なう人間であり、それは複数の
ソフトウェアを作ったとしても同じ品質の物を作らなければならないという点で、
職人的仕事である。
だから私は「プログラミングとは何か」と聞かれたら、芸術でも工業生産活動も
なく、「職人芸である」と答えることにしようと思う。
内容はタイトルが示す通りなんだけど、オッペンハイマーという人は科学者であり
つつも行政に深く関与しアメリカの核政策に意見し続けた人。最終的には諸々の
政治的圧轢の中で政界から追放されるのだけれど。
ここで、科学者がどういう立場でどの程度の深さで政治に関るかというのは、核の
登場以降一つの転換を向かえた問題なのではないかと思うけど、それはネットワーク
屋である我々にも全く関係ない話しではないと思う。身近なところでは、
暗合の輸出をめぐる米国に規制問題や、国内ではIPv6を
国策で進めるのはいかがなものかという意見をもつ人達がいることだ。
ネットワークとて、インフラとして必要不可欠であると同時に攻撃の手段や
争いの温床になるという点では危険なものである。でもそれだけに、国を挙げて
の整備や市民への教育というのは同じように必要なのではないかと思う。
ところで、情報セキュリティにおいて問題になっていることとして、
ネットワークがどのように危険かという評価を一般人は出来ないというのがある。
リスクの評価が出来ないからそれに対する投資を行なわれにくいというのだ。
この説明を聞いて正直私はピンと来なかったのだが、なぜかを自問してみたら、
要するに自分は攻撃側に回ることもできる技術力を持っているので、その危険性を
充分理解し評価できるからだという結論を得た。
そうであるなら、やはりその技術の本質を理解している人間は積極的に市民に対して
働きかけ、少氏でも本質を理解してもらおうとする努力をしなければならないのかも
しれない。
すくなくとも、「原爆投下は必要であった」というような教育を国家として行なう
ような真似はしちゃいけません。
昭和初期の歴史を軽く学んだ結果、私の興味は「ナショナリズムとはなにか」と
いう疑問にいきついたわけです。
さて、この本によると、ナショナリズムには村とか共同体の延長を護って
いきたいという感情と、政府機関や知識人層によって規定され教育される
ことによって刷りこまれる感情という、二つの側面があるという。
簡単に言えばボトムアップとトップダウンである。
これを読んで僕の頭に浮かんだのは、斎藤環の「ひきこもり系と自分探し系」
という若者の分類方法であった。引きこもり系は自分の枠を規定してその中
に閉じこもる。これは規定されたナショナリズムの中で自分の生き方を規定
する、例えば軍人などに見られるかたちに類似してはいないか。かたや自分探し
系は他者とのコミュニケーションを重視し他者との関係の中での自分は存在する
が独立した主体としての自分は存在しない。これはご近所づきあい重視という
古き日本の民衆にありがちなかたちに類似していないか。
とすると、明治から昭和の人びとの生活、二つの側面のナショナリズムに翻弄
された彼達の生活は、現代での若者の二分化にまで何らかの影響をあたえている
ように思える。そこに来て、作る会の教科書問題などの昨今の一部での
「ナショナリズム賛辞」である。
人びとは何を求めているのであろうか。現代人にとってナショナリズムは どのように求め与えられるべきものなのであろうか。
こちらは下記の中條氏よりも数歳歳上の人だが、太平洋戦争の期間外交官として
海外に赴任していた人の自伝的な本。昭和初期の戦争に向かう時代を帝大大学生
として過ごしてそのまま外交官になったわけだが、同じ歴史であっても見る立場
が違うとこうも違う物かと思わせる。
昭和初期の帝国主義で国が動いている時代にあっても、大学生はなんとも瓢々と
呑気にしていて、今も昔も変わらないのだなと思う。しかしそれだからこそ
見えるものもあるのではなかろうか。
歴史を見る時には一つの視点(たとえそれが学者の客観的視点であっても)から
だけでは不充分だということなのだろう。
こちらは近代史の学者の視点から冷静かつ客観的に明治以降太平洋戦争に向かう 流れを述べた本。ジュニア新書というくらいで、対象は高校生くらいらしく、 非常に読みやすいし分かりやすい。
これは良い本だった。
戦時中を陸軍士官学校の学生としてすごして学生のまま終戦を向かえた筆者から
見た戦争は、精神的に軍人として鍛えられてその直後にパラダイム変換を強いられた
人間の視点ということで極めて興味深い。そしてその後の筆者の人生は、正に
昭和の歴史であると言っても良いだろう。
良い意味でのナショナリズムが明確にも不明確にも存在していた時代に、学ぶべき
ことは多いのではないかと考えさせられた。現代の日本に不足しているのは
良いナショナリズムではないかと思われ、考えてみれば自分は「良いナショナリズム」
が欠如している人間であり、それに気がついた今自分をどういう方向に持って行く
べきかを考えるきっかけとなりそうだ。
精神の進化はどの程度遺伝子の影響を受けているのか、という内容。
遺伝子と文化は、互いに絡まりあう螺旋を描いて進化している。遺伝子=文化共進化
というアイデアが提案されている。
こういう感じの話は結構好き。でもこのテイストのまんまで小説書いても、 技術屋以外には受けないんだよな。
作者は「おたんこナース」の原案者。ナース物のエッセイでは有名な人らしい。
そういえば、この人の書いた本を結構本屋で見掛ける。
自分は入院2回に加えて現在でも病院のはそれなりに世話になっているので、
「まったく病院のこと知らないわけじゃないんだぜ」とか思っていたけど、
やっぱりお客さん(しかもライト)としてみるのと、内部の人間の視点で見るのと
では全然違うものなのだなと思った。そういう意味で、この本は自分と違う視点で
世界を見せてくれた本の一つであった。
冒頭に出てくる会話パターンごとのダメな性格というのが、全部自分に当てはまる ような気がして、ちょっと鬱。
技術的、専門的なことは何も書いていないけど、情報戦争に関する 概論書としては面白く読めた。
MJ-12ってのは地球外生命体との接触の対策をするためのアメリカの極秘プロジェクト として知られているけど、実は宇宙人じゃなくて地球のどこかにいる未知の生命体、 それこそソリトン生命体とかに対抗するものだった、とかいう設定は面白いのでは なかろうか。
とりあえず、ゼウス逝ってよし。
おりしもアフガニスタンでは戦争が始まっている。報道されている 情報はどこまで信用できるものだろうか。いくつかは、あきらかに アジ報道としか思えない内容も流れて来ている。
あとがきの中の「だが、どんな場合でも彼らが誇っていいことが一つだけある。 それは彼らが金銭や酒色の誘惑とは無縁でありつづけてきたことだ」という 文がとても印象的だった。
という本が目に入ったので買ってみました。 内容は、和歌山の毒物カレー事件を扱った、著者(当時 中学生3年生)の 夏休みのレポートです。
医者を志していたため、劇薬や食中毒による症状の違いなどに多少の知識はもっ ていた著者が、新聞とニュースから得た情報から報道内容に不審を抱いて、イ ンターネットと書籍から収集した情報をもとにその誤りを指摘しく過程が書か れています。最後に結論として、四人の死者を出したのは「保健所、医療機関、 警察、行政、マスコミすべての体制の不備のもとで、各分野の専門家の複合過 失によって拡大された社会的医療事故、すなわち「業務上過失致死事件」によ るもの」ではないかと述べています。
科学論文の体裁はなしていないし、堀下げれる箇所はまだまだ多々あるとは思 いますが、中学生がこれだけの内容を書けるのはやはり凄いと思いました。
感銘を受けた箇所は多々ありますが、今の私には内容そのものよりもむしろ研 究者としてのありかたに、自分の現状を照らしあわせたという視点が強いです。
まず
ちなみに自分が中学生の時分はどうだったかというと、僕が所属していた 科学部はそれなりに研究活動を重んじるクラブだったのですが、私は「俺は プログラムが書きてぇ」と言って顧問の先生に喧嘩売って飛び出したという 具合なので、あんまり参考にならないです。その時に同期だった友人のうちの 一人は、現在名古屋大学の博士過程で正統派(力技とか裏技が存在しない)の 研究者としての道を歩んでいます。
次に考えさせられたのは専門家としての責任です。これについては、
以前からの思うところを再起させられたというところでしょうか。
私の本業はコンピュータ科学の研究者(の中のハッカーと呼ばれる人種)です。
博士過程の3年なので、すでに学部を卒業して5年目になります。
小中学校の先生は大抵学部卒でしょうから、仕事について5年目といえばそれ
なりに経験を積んでいる中堅になりつつあるのでしょう。医者だとすると、6
年在学した後に国家試験に合格してインターンは終了して若手として頑張って
いるくらいかな。いずれにせよ、他人の人生や生命を預るまっただなかにいる
くらいの年代なわけです。
人間には向き不向きがあるのは事実で、私には教育者としての能力は欠落して
いることは自認しており、小中高大とおよそ「先生」と名前がつく職業には絶
対つくつもりはありません(自分だったら、こんな奴に人生預けたくないし)。
だから、先生の例はちょっとここではよそに置いておきます。
さて、計算機ネットワークと人の命は違うものの、目の前に不調な{人間,
システム}が来て、そいつを助けることに全精力を傾けることに変わりは
ないはずです。医者や医者を目指す人間が仕事にかける真剣さだけが特別で
あるべきなわけではなく、およそ専門家と呼ばれる職業を目指す人間は
すべて共通するものであって然るべきです。
では果たして今自分身を置く大学という機関、そして自分自身がその真剣さ
の下に活動できているのか。
それが自問でした。
(以下追加中)
(以下追加中)
で、義務教育ってのが何のためにあるかという議論はその筋の専門家の人達の
間では盛んになされているのでしょうが、私の持論は単純です。
「自分の子供が将来どんな分野に進む可能性に対しても対応できるだけの、
必要十分な知識と教育技術を身につけること」