少しSF小説をお休みしようと思いました(2000年1月31日)。ちなみにこの5年間で 読んだSF小説を整理してみたら、約110冊でした。だいたい月に2冊程度ですね。 まあ、こんなものでしょう。
じゃあ、SFやめてどこに行くのかというと、久しぶりに 岩波新書とかブルーバックスに走ってみようかなと思っています。
とか言いながら、全然SFのペース落ちませんねぇ…(2000年5月某日)。
本棚を一つ買い足そうかな…(2000年10月某日)。
そしてやっと本棚を買いました(2000年12月初頭)。
2000年一年間で読んだ本を数えたら約50冊。これは小説だけで、この他に新書 などが10冊くらいある。もちろん雑誌や専門書は別。結構読んだものだ。ちなみ に買っておいて読んでいない文庫は現在20冊程(2001年2月)。
20世紀も終りやね〜。
バランス・オブ・パワー
これはまぎれもないSFだ。
ところで、この人って電撃hpで「UFOの空、イリヤの夏」を書いている
人なのね。なるほど。あの連載、結構好きなんです。
ひさしぶりのホーガン。他の作品と比べると薄いです(ページ数が)。
「時間もの」なのですが、普通に扱うと欺瞞か泥沼のどちらかになる
わけで、ホーガンがどうするのかな、と期待しながら読みました。
SF作家と猫との関係は「夏への扉」だけでなくても語られることが多い。 私自身は猫と暮らしたことはない(一夜をともにしたことはある)し、 つきあいと言えば道すがら出会った猫に挨拶をするくらいのものだ。 もっとも返事をもらえることはまれだが。だから、猫好きと 呼ばれる人の気持ちが必ずしも理解できるわけではない。 でも猫好きという人が居る人は認識しているし、この作品は(作者が 猫魔かどうかはしらないが)何から何まで猫の話しだ。普通の 小説だと人物の表情やしぐさの描写に相当するものが、この作品では すべて猫のそれになっており、いかに猫的な描写を行うかによって 表現の現実味を増している。
ところで、この作品を読んで確信できたことがある。もちろん
以前から気付いていたことではあるが。
小説においても、設定やアイデアとば別に、
「面白い作品」に仕上げるための表現手法が大きなウェイトを占める。
もう少し具体的に書こう。
以前からアニメーションにおいても同様のことを考えていたが、
確信できたのはエヴァンゲリオンを見てからだった。何故EVAが受けたの
かと言えば、つまるところグリグリ動くロボットにポイントをついた正確の
異なる美少女たち、背筋が寒くなるようなアクションシーンもあれば、
サービスシーンもあるという、過去のアニメの演出の王道をすべて注ぎこんで
いたからに他ならない。決してそこには新しさというのはないのだ。
前半のアニメとしての完成度があったからこそ、後半の手抜きも許そうと
いう気に(あれは演出だという主張もあるかもしれないが、資金と時間不足に
よるものだと私は思っている)させられる。つまり、ストーリーとか設定とか
も重要なんだけど、結局細かな演出や表現手法をきちんと押えることが必須
条件なのだ。
それが小説においても言えるという確信が、本作品の読後感として得られた ことには何か意味があるのかもしれない。なぜなら、すくなくともこれは 海外SFの翻訳物からは得られないと思われるからだ。 しばらくヤングアダルトに走ってみたかいがあったというものだ。
し・か・し。
ヤングアダルトと思って読み始めたこの作品、こういう言い方は失礼だが
予想外に密度が高かった。そして何よりも、この作品は電撃っぽい外見を
しているが、まぎれもないSFだ。仮面をとればそこにはハヤカワのテイスト
がびっちりつまっている。
ロストテクノロジーがつまったスペースコロニーと、その住人、地球に戻ろう
とする異端の者の物語。基本はバリバリのSFだ。それに加えて主役達が猫とい
う意表をついた設定と、若い感性を引き付ける演出にスピード感溢れる文章。
読んでおいて損はないと思う。
お前はハードSFのファンじゃなかったのか?と言われそうだけど、
立て続けにヤングアダルト系を買ってみました。
ちなみにこの本はコバルト文庫。
# そういや、まだ読んでいないけど上遠野 浩平が二冊本棚に入っているな。
この本は上の「猫の…」と同様、たまたま買ったSPA!の(私的)YAランクで上位に
入っていたもので。たまには知らない人の作品を読むのも良いかと思いまして。
(秋山 瑞人は電撃hpで名前見るか…)
おぉっと、イラストは実のお姉さんが書いているのね。身内で話を作って
絵まで付けて。めざせCLAMP(って彼女達は姉妹じゃないけど)。
# そういや某バカ雑誌に「CLAMPの大川七瀬がとあるパーティー会場で
# 立野真琴を『自分より美人』という理由で突きとばしたらしい」
# というネタが載っていて笑えた。これが竹内直子とかだったらウソくさい
# けど、立野真琴というあたりが微妙にホントっぽい。
それはさておき (^_^;
なんとも若々しい(親父くさっ)作品だなと思った。
作者の経歴見ると、うぅっ20歳なのか。そりゃ若いわな。
なんか「俺はなんて錆びついた心になってしまったのだろう〜」と
思いましたが、こういう風に若い人が駆け抜けて行ってくれるのを見るのは
それはそれで頼もしくもあります。まだまだ若い世代も
捨てたものではないのかもな、と。
あかほり さとるです。もはやなにも言いますまい。
やっぱり胸かね。むね。
近所の古本屋でテレホンカードで本が買えることを発見し、
百円だったので買ってしまえと買ったうちの一冊です。その他にも
スレイヤーズを2冊も買ってしまった。
# 木曜組曲から3日程空いているけど、この間は電撃hpを読んでました。
# したがって、読書に休みなし。
この作品も「故人である重松時子の家」という閉ざされた空間で話が進んで
いく。構図としては、ネバーランドの女性版というところか。
しかし、ネバーランドが高校生の男の子たちの物語であったのに対して、
これは女性それも文章書きを生業とする30代以上の(それなりに年季の入った)
女性の話しである。
比較してみると、ネバーランドに出て来る人物は、作者の理想という色眼鏡
で見た少年像に思えるのに対して、木曜組曲の登場人物は誰もが生々しい。
小説家、ノンフィクション作家、編集者など、やはり著者本人の観察眼が
ゆき届くところの世界に対する、しかも同性に対する描写は厳しいものが
あるのだろうか。
恩田陸はハードカバーが多く、買っていると金がもたない。だったら
図書館で借りれば良いじゃん、ということで図書館に行って来ました。
とりあえず、これがあったので借りて来た。恩田作品を読むにつけ、
「麦の海に沈む果実」でその特徴がすばらしい具合に収束しているように
思える。
本文中に東工大生英語喋れない問題が指摘されているけど、えー、
その通りです。
修士までの人間は喋れません。何が問題かと東工大=英語
出来ないというのが定義だと本人たちが思っていることでしょう。
この作品の部隊は長崎県の鼎(かなえ)島となっているが、どうも 軍艦島の通称で知られる端島(はしま)のことのようだ。軍艦島の様子は 雑誌の写真で見たことがあるだけだが、作中のイメージ通りだったのでおそらく 間違い無いと思う。
この作品は恩田陸の作品の中ではオーソドックスなミステリのスタイルを
とっているといえそうだ。
著名な画家の生まれ変わりと言われる主人公と、その知人、画家の息子と
画家が絵を残した4人の人物。これらを中心に物語は進んでいく。
主人公には他人の意志を感じとる力がある。この能力が一つの鍵となる
わけだが、物語りでは実はそれがあまり特殊なことであるように表現されて
おらず、むしろ「生まれ変わり」のほうにスポットがあたっている。
結局結末では「生まれ変わり」には別の説明がつくわけだが、これによって
ついつい主人公の特殊な能力のことをあたり前のように受け止めてしまう。
これって、一種のトリックのように思う。
なんかね、恩田 陸なんですよ。気分がね。
# この調子だと、つぎは有栖川 有栖か、宮部 みゆき だろうか。
「六番目の小夜子」とか、「麦の海に沈む果実」では学校という空間が
舞台になっていて、この作品では学校(学校群)という空間はあるにしろ
むしろ世界としては田舎の都市という規模にまで広げられている。
彼女の作る世界は、学校とか田舎の都市とか閉鎖した護られた空間の中で
事件が起きる。その空間は大抵時間の流れがゆっくりしていて、それを
受け入れる人と受け入れない人がいて、それでも囲われた空間は已然と
して存在している。
僕が自分の十代はどうだったか、と考える時、やっぱりそれは学校という
風景になるわけで。
僕にとっての学校というのは、今見返してみるとやっぱり護られた閉鎖した
空間で、その壁にあいたすき間から時たま外の世界に手を伸ばしてみたり
して。
そんな時間だった気がする。特に時間の流れが速いとか遅いとかという
ことは無かったと思うのだけど、少なくとも今の時間の流れとは違った
軸だったようには思う。
ホーガンのスパイ大作戦シリーズ。
え、何故?と聞かれても、古本屋で50円で売っていたから…
JとJtoXは見ていたけど、OVAのRは見ていません。だからライムとか
言われるとどうしても ことぶきつかさ のほうのを思い浮かべてしまう
(え?宝魔ハンター?あぁそういやそういうものもあったね)。
当然ライムの台詞は林原めぐみ。あ、Rも一緒か。
で、結局あかほりさとるが何者なのかということなのだが、なんだろね。
企画物多量生産しているのはいいのだが…。
などと思いつつgooで「あかほりさとる」
を調べてみると、
本人の公式サイト
を発見。セイバーマリオネットJが
終る時のコメントで「小樽が死ぬ時には彼女達も殉じて欲しい」というものが
あった。
で、たまたまこれを読んだ後で、映画の「アンドリュー NDR114」(原作は
アイザック・アシモフ)をビデオで見た。
なんかわかったぞ。
人間の心を持ったロボットというのはアシモフも手塚治虫も書いています。
で、彼らがテーマにしたのは「人間の心」だけど、
セイバーマリオネットの場合は「女性の心」なわけです。
でも、あかほりさとるの書くところの「女性の心」というのは、実は
男に従属して欲しいというエゴを前提としたものなのではないか。
僕は別にこれに目くじらを立てれるような立場ではないけど、そういう男尊女卑
が根底にあるように感じてしまって、もしこの理解が真であるとすると
あまり良い気持ちはしない。
確かにね、あかほりさとるの気持ちはわかるのだよ。女の子はぷにぷにしていて やわらかいし良い匂いがするし気持ちいいけど。でも、なんだかね。
それと、文を書いている長谷川 勝巳だけど、最近だと平成のザンボット3こと トライゼノンの脚本と構成やっていますね。DragonMagazineで小説も書いている。
え、何故?と聞かれても、古本屋で50円で売っていたから…
アニメ版は見ていました。面白かったです。あれは…1993年くらいかな。
原作の小説とアニメ版とは結構内容が異ります。タイラーが若くなっていたり、
ユリコ少佐と双子が船に乗っていたり、キム中尉がショートヘアだったり、
アザリンの胸がもとい歳が15歳になっていたり。
どちらが面白いかというと…難しいな。アニメ版のほうが練れているとは思う。
というわけで、アニメ版をビデオで借りて来て見直しています。
あぁ、こう生きたいね。
そういえば、これを見ている当時「ひさしぶりに次週が楽しみなアニメに出会えた」
と思ったものでしたが、やっぱり面白いね。
え、何故?と聞かれても、古本屋で50円で売っていたから…
個人的に神坂 一は好きではありません。少なくともアニメ脚本家としての
腕は認めていません。台詞回しが映像作品にあっていません。スレイヤーズも
ロストユニバース(これは映像もひどかったが)もひどいものでした。
だから、嫌い。
いや、確かに自分で脚本も書こうという心意気は認めるが(ゴーストライター
かもしれないけど)、ちょっとねぇ。大川七瀬に負けているぞ、と。
あ"〜!どうしてもリナ・インバースの台詞が林原めぐみになってしまう。
え、何故?と聞かれても、ちょっと軽いものを読んでみようかなと
思ったもので…
3時間で読み終ってしまった。ちょっと軽すぎたか。でも面白かったです。
続き?どうしようかな…。コスモス荘もどうしようかな。
リングテイルって日本語に直したら指輪物語じゃん。トールキンか?
違った。「円環の物語」だそうな。
……
(読後)ああ、なるほどね。だから「円環の物語」なわけか。
いいですな。電撃系の小説はバラエティに富んでいて。その中でストレートに
中世風剣と魔法のファンタジーを書いたというのは、ある意味気持ち良いです。
こういう話しだと、いかにそれ風の世界観を出せるかが勝負だと思うのですが、
その点問題なしですね。
(電撃hpのインタビューを読み直して)え?「円環の物語」って勝ち戦の君の歴史が 延々と繰り返されるからという意味じゃないの?
何から何まで富野。
あとがきまで富野。
たまには少し弾けた文章を書いてみないかね。例えばこんなの。
さてさて。
この本は、アムロとララァの出会いを通じて書かれた一年戦争のお話しです。
そういえば僕が彼らと出会ってからもう20年がたつんだなぁ…
え?「出会って」ってどういうことかって?
僕はね、彼らは僕の製造物だと思っていないのですよ。きっとね、彼らは
僕の頭、心を通じて未知なる次元からこの世に舞い降りた、実在だと思うのね。
そういう考え方がこれまでガンダムを支えてくれた人々や、スタッフそして
マーケットに対しての正しい態度だと思うんです。決して僕一人の力ではない。
この20年間の結実として僕は∀ガンダムという作品を1999年から2000年にかけて
製作したわけだけど、確かに賛否両論が巻き起こったのは事実。でも、この作品
は一つの僕なりの誠意だったわけなのね。
実際どんな作品に対しても、否定意見はあって然るべきだと思うし、何も反応が
ないよりは賛否が湧き上がってくれるほうが成功と呼べると思うのです。
20年の前の僕はアムロ・レイのように我の強さばかりが目立ち、それでいて他人の
抱擁を求めるだけの少年だったかもしれないけど、
20年後の今日の僕は少しはロラン・セアックのように少年の純粋さを持ちつつも自らも
包容力を持てるようになれたんじゃないかな。ガンダムというのは、僕にとって
自分を成長させてくれた作品なんじゃないかなと思うのね。
割れた壷はキシリア様に届けられないけど、人はやり直して成長していくことが
できるはずなのです。
これは言うならば人の革新なのだと。
ああ、時が見える。
芸大の先生と話しをしていたら「芸術的インスピレーションはやっぱり ロジックではなく、どこからともなく生まれて来るものだ」という話し になりました。丁度この作品を読んでいたので「別の次元からインスピレーション がくるというSFを読んでいて…」という話しをしたら、「ホーガンか?」 ということになり、J・P・ホーガン話しで盛り上がってしまった。
多分本当の芸術はテクノロジーを持った人がインスピレーションを受けて 出来上がるものだと思うのね。商業的芸術は多分テクノロジーの方が 比重が大きい。
作品の内容とあんまり関係ないや。
ヒゲの小話集。
本屋のレジに他の雑誌と一緒に持って行った時、
店員: 「カバーをお掛けする本はありますか?」
俺:「あ、じゃあ、そのヒゲだけ。」
と言いそうになってしまった。ちゃんと「その文庫だけ」と言いました。
何か僕が書く小説もどきに似ている。というか、俺が真似しているのか。
まあ、僕はマイケル・クライトンほど頭は良くないけど。
設定とか面白いんだけど、もうすこし結末でひねると小説として面白いのでは
ないだろうか。
巻末の解説に書かれていることが色々と納得できてしまう。
科学的考証はすでに目新しいものではなくなってしまっているし、
それを取り除いてしまうとストーリーとしては捻りがない。確かに小説として
残る作品ではないかもしれない。だけど出版された1969年当時に、こういう
表現手法の作品を提示したという意味は大きい。
# SFじゃないけどね
雑誌の書評で目にしたあと、本屋で手に取って最初の数行を読んでドキドキし
たので、買ってみた。
この書き出しは、俺には書けないや。
翻訳物のSFばかりをずっと読んでいたけど、やはり日本語を転がす技というの
は、少し違う技な気がする。それに恩田陸の場合、文章から受ける雰囲気が独特の
世界を成しているのである。女性だから、という書き出しがハラスメントだと
は理解しているが、でもそこには確かに女性と男性との違いがあるような気が
する。
女性というものは、自分の世界を持っている。それは夢と恋と不安でできてい
たり、想像もしないものが隠れていたりするかもしれないわけだけど。
一つ言えるのは、その世界の作り方が女性ならではの「私の世界」なのだとい
うことだ。(結局その世界は自分の子供を「護る」ために構築する防御壁に
通じるものがあるのではないかと思う)
そういった世界がぽろぽろと言葉になって、こぼれ出て来るような文章を読ん
でいると、一つひとつの言葉を大事に受け止めようという真摯な気持ちになる
ものである。
これまで呼んだホーガンの作品と比べると、冒険アクション小説の ノリが強いです。
佐藤 茂 版の小説よりも、毒々しい感じがします。人間のエゴがストレートに 表現されていて、むしろこちたのほうが富野ガンダムに近いのではないかと。
鋼鉄都市の続編にあたります。
ひ〜〜げに〜〜〜〜 ららる〜〜〜〜 ららる〜〜〜〜〜
TV版と比べて、途中の話を端折っている点と、終り方が全然違う点が
異なります。でも、これはこれでいいかな。とくに小説版のガンダム
シリーズに共通していえるのは、「機械」という存在をそれほど重視
していないことがあると思います。例えば逆襲のシャアの小説版の
ベルトーチカ・チルドレンでは、映画ではサイコフレームという機械が
担っていた役割をベルトーチカの子供が担っています。この点については
富野氏も後書きで触れていますが。
同じように、ターンAについても執筆者は違うものの、「機械がなくても
話はすすむ。話の中心は人間ドラマ」という構図が引き継がれているように
思えます。
リヴァイアスに必要だったのは、リタリンではないだろうか、なんて思った。
これもまたディックな話だなぁ。
人が生まれてくるということは数億分の1の確率に基づいている。
一人の人間が一生に生成する精子や卵子の数を考えてみるとよい。
では、人間として生まれて来なかった精子や卵子はどこにいくのだろう。
成長した人間は、さらに無数の生殖細胞を生み出す。この命は
どこから来るのだろう。
そう考えると、一人の人間の中に実は無数の命の可能性が埋もれているという
ことにならないか。ならば一人の人間の中に無数の精神の可能性が埋もれていても、
不思議ではないのではないか。
多分。
生まれたばかりの人間は無数の人格の集合体で、成長するにしたがってその内
の一つが確立されていく。他の人格は次の世代の命の可能性の中に消えて行く。
子供のころはいくつもの人格と共存しているのだ。身体が次の世代の命を生み
出せるくらいに成熟すると同時に、のこりの人格は次世代の人類の種のなかに
その住処を移す。
もう一人くらいは残っていてもらいたいものだ。そうすればきっと寂しくない。
しかしそれは、人の親でない者の甘えなのだろうか。
そんなことを考えつつ、私がこの本を読んだのは多重人格の感覚について多少
なりとも知りたいと思ったからだった。ちなみに社会性の違いから日本では多
重人格よりも精神分裂症になるケースの多いとか別の本で読んだような記憶も
ある。ビリーの場合は複数の人格が入れ替わりたち替わり、お互いに話が
できたりできなかったり。時間が断続的になることがあるため、自分が何を
しているのか分からなくなったり。
残念ながらこの感覚はわからない。
幸か不幸か、鬱病や神経症の人の「身動きがとれなくなってしまう」という
感覚が私は理解できるのだが、経験ない人にとっては全然わからないらしい。
それと同じことのようだ。
日本のSFの最新の動向をちゃんと追っていない素人の私の目からみると、日本
国内のSFやファンタジーは謎の精神世界とカルトに飛んでいってしまっている
ように見える。かくいう私も、精神病や向精神薬などの書籍をかなり読んでは
いるが。
で、この作品がSFかというと、全然そんなことはないのだけど、新書でもない
ので自分的にはこちらの仲間に入れてみました。
アニメ版は見ていて非常に訳分からなくなるのですが、考えてみれば一つの事
象であって見る人によって見方は変わるわけで、そういった複数の視点を順番
に見せられても混乱するのはあたりまえなのかもしれない。
それからする
と小説の冒頭にある「複雑そうにみえるが、実は単純な話し…」というくだり
が、大変まっとうなものに思えます。
『創世紀機械』の後半では、コンピュータの脳波接続制御の話がでてきましたが、
ごく簡単に触れられただけでした。それに不満を感じた人は、この作品を
読みましょう。また、この作品の中で、コンピュータの学習についての話が
出て来ますが、この説明だけで不満な人は『未来の二つの顔』を読みましょう。
すごいですね、ちゃんと参考文献が引き継がれている。
実際の研究論文でのある程度規模が大きくなると、一本の話のなかで
すべてを書き表すのは無理なわけで、こういった点からもホーガンは
ちゃんと科学の叙述の仕方を踏襲してくれていると言えるわけです。
さて、問題のお話し。
ホーガンお得意の科学者としての理想と、現実の世界で生き抜くための 駆け引きとの葛藤のバランスを絶妙に絡めて描いています。 それに加えて読んでいてにやりとさせられるユーモアと、思わず感心してしまう 伏線の張り方のうまいことったら。
最初の2編読んでちょっとお休み中。(1月初旬)
resumeしました。(1月下旬)
これまたティプトリー初期の作品で、前衛的な文体のなかに人類だけでなく 地球上の生物すべてに対しての、何か卓越した視点というのが感じられる 作品ばかりです。でも、独特の語り口なので、結構読むの疲れる。一回 消化できてしまうと、ああやっぱりティプトリーだな、と思えるのだけど。